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-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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蔵重淳君 逝去

Date: 2024-11-28 (Thu)

先日蔵重君が10月4日に84歳で亡くなったという報告を、奧さんの友子さんからの喪中はがきで知った。

蔵重君は、小生の東大農芸化学時代の同級生で、しかも卒業論文も植物栄養・肥料学研究室(三井進午教授)で一緒だった。当時の同じ研究仲間は蔵重淳・西澤一徳・森敏・横溝光生の4名だったと思う。と思う、というのは、彼らと同じ研究室にいた、という記憶がなぜか小生には今では非常に薄いためである。実はここに書いた氏名が正確なる所以は、2012年8月発行の『卒業50周年記念文集 私の選択−豊かな人生を求めて―』という東大農化39会編の同窓会誌を見て確かめてみたからである。39(サンキュウ)とは昭和39年卒業生という意味である。

 この文集の中で蔵重君が書いている内容の略歴は、杉並区の都立豊多摩高校時代も、東大在学中も、社会人(味の素に入社)になってからも、もっぱらラグビーに専念していたということである。29歳の時にラグビー中アフタータックル(反則行為)で肩を脱臼して手術を受けてからは、けがのない心身統一合気道に専念し、フィリピンでの普及を薦めたりして参段を与えられるまでになったとあります。

 コロナ前での駒場の同窓会館のレストランルベソンベールでの39会で会った彼は、なぜか異常に太っていたので驚いた。テラスが猛暑だったためもあって、しきりに滴る汗をハンカチで拭っていた。「今、漢方の勉強をしており、整体師の免許を取った。いまさらながら医学部に行っていたらよかった」などとも言っていたことも思い出した。体調を尋ねたがそれには答えず、逆に小生の足腰の弱りを心配してくれた。後日、軟骨成分であるコラーゲンとヒアルロン酸の粉末入り袋をわざわざ贈ってくれたのだった。

 彼の上記文集での文章の表題は

 「ラグビースピリット」---人間力向上への取り組みと挑戦---

というものである。彼が4年生の卒論実験で研究室にいたという記憶が小生には全く思い浮かばないのである。小生が農学部2号館の地下のRI(ラジオアイソトープ)実験室にこもりきりだったからなのかもしれない。それにしても当時は三井研究室では毎週ゼミがあり、それは全員出席が原則だったので、我々卒論生も全員が参加していたはずなのに。今となっては、彼以外も同期の桜の印象が非常に薄いのである。小生の認知症が徐々に進行しているからなのかもしれない。当時の研究室の教官であった三井進午教授・熊澤喜久雄助教授・栗原淳助手・石塚晧造助手・平田煕助手の誰に蔵重君が付いて指導を受けていたのかも全く記憶にない。

 その後の39会での蔵重君の話では、味の素(株)に就職してから、何年か経って、フィリピンの味の素工場に派遣されて現地の異邦人と異文化の中で工場長をやり遂げたことが何よりも彼の自慢のようだった。アジア諸国での飛行機の搭乗者達には、お土産に「味の素」を提供して、味の素が調味料として、アジア諸国の食卓に広まった、ということがよほどうれしかったようであった。

 そういえば、上記の彼の文集には以下の言葉が記されている。
::::専攻は、福島県の野口英雄にあこがれ、小さいころから医者になることを夢見ていた為、一応そのころ医学部を目指すことができる理科II類で入学していた。2年の秋に専門を決めるときは、母子家庭で医者になるのは、学費と年数がかかりすぎることも自覚できていたし、何よりも、医学部を専攻するとラグビーができなくなるのが決め手で、農学部の農芸化学を専攻した。
 それこそ、卒業の学部はと問われれば、ラグビー部と答えるほどのラグビー第一の学生生活を送らせて頂いた。ラグビーで得られたものの大きさを考えれば、全く悔いのない選択をしたと思っている。農学部植物栄養・肥料学講座の先生方には、多大なるサポートを頂き、ただただ、ありがたく感謝申し上げる次第である。

 この文集の最後には、ラグビースピリットが私の行動基準となる というタイトルで以下のように結んでいる。
 
大学時代に情熱を燃やして取り組んだラグビーのスピリットが私の行動基準となった。ラグビースピリットは、ファイテイングスピリット、フェアプレー、テイームワークの3つのスピリットとノーサイドという基本的考えからなる。このラグビースピリットは、逃げることなく正面切って向かい合う感覚で、どちらかというとあたりが強く、人によっては誤解を招きかねない面があるようだ。しかしながら、総じて、このラグビースピリットは、私の人生の中でよい結果をもたらしてくれたように感じている。特に、異文化、異国人の世界で有効であり、私の職場は異文化、異国人の世界も多かったからかもしれない。

別件だが、2011年に東電福島第一原発事故があった。小生はそのあと10年間にわたって、現地の動植物の放射能汚染調査を行った。2005年あたりの年賀状には、福島の三春町の有名な滝桜を背景にご家族で撮ったカラー写真が刷り込まれていた。そこには蔵重君の両親の郷里が三春であると記されていた。これにはちょっと驚いた。福島県の調査ではこの三春町も時々訪れていたからである。この付近の民家の空き地には、数パーセントという高い確率で帯化タンポポが生息し始めていたからである。

 総じて蔵重君はラグビースピリットに殉じた幸福な人生だったのではないかと思う。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます.

 森敏 合掌