WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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板書の丸写し 本当に必要なのか

Date: 2024-05-07 (Tue)


板書の丸写し本当に必要なのか
という投書が載っていた。

小生は大新聞の投書欄はほとんど読まない。なぜなら,
「新聞社が自社の主張に合った投書を取り上げている場合が多い」という長年の間に培われた先入観があるからである。しかも投稿原稿の長さに編集部が手を加えている。(実際加えられた経験がある)

ところが本日(2024年5月7日)、なぜかこどもの週にかこつけてか、朝日新聞は10代の意見をいくつか取り上げていた。その中の一つに、

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「板書の丸写し本当に必要なのか」
という16歳の高校生の投書が載っていた。昔から興味があったテーマなので、珍しくも思わず引き込まれてしまった。以下氏名は臥して全文無断転載です。
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学校の一部の教科では「ノート提出」なるものがある。授業で撮ったノートの内容が評価されるのだが、私の点数は毎回低い。「板書をきちんと写していない」からだそうだ。
授業の理解をより深め、あとで復習もできるように、ノートを取ることは大切だ。だが本当に、先生が書いたものを全て写さなければならないのだろうか。
私は最初から知っていることは写さないことが多いので、ノートの点数が低い。一方、先生が書いたものを全て写し、色ペンできれいにまとめた友人のノートの点数は高い。
これは生徒の何を評価しているのだろうか。私には生徒の従順さや、言われたことを淡々とこなす能力を評価している気がしてならない。
ノートを取る時間よりも、先生の話を集中して聞き、自分で考える時間を大切にしたい。全て写すと、その時間が減ることになる。
板書を全て写すことと、先生の話を集中して聞くこと。どちらが能動的に授業を受けているだろうか。
 
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実は、小生は昔から全くノートを取るのが苦手です。大学に入ってからも、教養学部の駒場キャンパスの授業でも、まともにノートが取れた記憶がありません。デモで疲れて栄養失調で目がかすんでいたせいもありますが、教師の板書に対して、ノートを取る手が全く追いつかないのです。この投書の記事にあるように、教師の話に疑問が湧いたら、頭がそちらの方に夢想してしまって、ノートなんか取れませんでした。昭和天皇の植物分類学の御典教師であった湯浅明教授のラテン語の羅列の分類学などは、最大の苦手でした。
 
本郷キャンパスでの農芸化学科に進学しても、生化学の舟橋三郎先生や、食糧化学の桜井義人先生の板書の化学式などは何とかノートにとれるのですが、話の筋は記録するのは無理でした。三井進午先生の肥料学の授業は、すべてが放談で、筆記する必要がりませんでしたが、時々高等な博士論文の刷り物を渡されて、皆さん動転したものです。ちんぷんかんぷんでしたね。授業は一学期に3コマしかなく、「躁」の時にしか講義がなく、試験は「脱窒について述べよ」ということで、全員「優」だったのではないでしょうか。

弘法健三先生の土壌学の粘土鉱物の細かい構造などはとても板書する気にもなりませんでした。ぼそぼそ声が聞き取りにくくて退屈でした。試験は「可」でした。これについては後日談があります。2011年に福島第一原発が爆発して、放射性セシウムが土壌の粘土鉱物に固着して出てこない、という話が流れて、植物栄養肥料学研究室の2年先輩の土器屋由紀子さんが、弘法先生の授業のノートを、まだ自宅に保管している、ということで送ってもらいました。そのノートには駒場での2年生の土壌学の弘法先生の授業のあの退屈だった板書が実にきれいに写されていました。カオリナイトやモンモリオナイトなどの粘土鉱物の構造も。これには本当に驚きました。ここで初めて弘法先生の授業の偉大さが認識されたというわけでした。神戸女学院の英才がいつも生真面目に板書をノートに写し取る授業風景思い浮かべましたね。
    
以前のどこかのWINEP ブログでも紹介したことがあるのですが、松井正直先生の有機化学の授業はロジカルで大いに興味を持ったのですが、先生は自分が「不斉合成」に世界で初めて成功したビタミンAの全合成法などを、反応触媒なども含めて、いきなりすらすらと20行程ぐらい書き進めるのですが、一通り書き終わって、「というわけで、全合成に成功し、これは住友化学で大量生産されて実際に売られています」と言って、黒板拭きでさぁーっと、消してしまわれました。菊酸やロテノンなどもすべてそういう方式でした。
「君たち、こんなの写しても意味ないよ。興味があれば僕の論文に書いてるんだから」と板書のノートへの写しには否定的でした。教科書は Fisher & Fisher著 の Organic Chemistryでした。
    
一方で、これもいつかのブログで書いたのですが、発酵学の有馬啓先生は、いつも模造紙数十枚を束ねて木枠に吊るして講義室に秘書に運ばせてきて、それを猛烈なスピードで説明しながら、一枚一枚ピリピリはがしながら授業を進行するので、ノートを取るどころではありませんでした。「集中して俺の話をよく聞け!」という態度でしたね。いつも「躁状態」でした。
    
農芸化学科では実験台が4人一組でしたが、同じ机の村山昭君は、板書のノート取りの天才でした。一つの授業に一冊のノートの半分を消費するのです。いつも期末試験の時には彼のノートを借りるのですが、1ページにキーワードが2,3個大きく書かれているのが常でした。キーワードの周辺情報は彼の頭に収蔵されていたのでしょう。彼の成績は「全優」だったと思います。こんなノートの取り方があるんだと驚嘆しましたね。
  
栄養学の神立誠先生は、英語の栄養学の原書を教壇上でぽつぽつと翻訳しながらの講義でした。板書はほとんどしませんでした。先生は強いずーずー弁(茨城県神立村出身)なので聞き取り辛い上に、時々「もとい、翻訳し間違った、一からやり直し」などというものですから、到底筆記する気にはなれませんでした。ですから途中から欠席して、受験の時は一夜付けで体系的な栄養学は別の教科書を買って独学しました。答案の裏に「質問」を書いたら、授業に出席していないことが明らかなので、質問に答えていただけず、冷たく「可」がつけられていました。
   
微生物利用学の山田浩一先生は、ひたすら有用微生物の分類学でした。これも湯浅明先生と同じく、ラテン語の羅列ばかりなので、誰も板書の引き写しができなかったと思います。先生の授業で覚えているのは、「台所の流しには、でんぷんなどがこびりついて流しが詰まるので、それを微生物発酵法で強力なアミラーゼを生産して商品化する時代が来るだろう」みたいな話でした。板書しなくても、アミラーゼ、リパーゼ、プロテアーゼ、などの商品開発の基礎知識は農芸化学徒としては叩き込まれたかもしれません。

    
 以上、板書の丸写し は必ずしも必要がない例を示しました。
   
 いろんな個性的な授業の仕方があるのですが、IT時代はもっともっと合理的に生徒や学生の理解を高める授業のやり方があるでしょう。
  
 
(森敏)