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-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
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保科次雄君の余話

Date: 2023-12-06 (Wed)

  昨日、保科次雄君の奥さんから年末の喪中の礼状が届き、保科君が75歳で亡くなったことを知らされた。今時あまりにも若すぎる死ではないか。実は、ちょうど先日開かれた東大農学生命科学研究科の植物栄養・肥料学研究室の同窓会では、彼の姿が見えなかったので、少し心配していたのだ。

  以下は、思い出すままに記述した、保科君と小生との交流余話である。

  日時は判然としないのだが、保科君は東京教育大学農学部(現筑波大学)の修士課程から農水省に入省して、枕崎の茶業試験場に在職しているときに、現地の現在の奥さんと結婚し、農水省から植物栄養肥料学研究室に派遣研究生として短期在籍した。熊澤喜久雄教授の重チッソ(15N)発光分光法を習いに来たのである。

  彼は気遣いが繊細な非常に柔和な性格の人物であった。小生は彼にお茶のことについて育て方から、茶樹の栄養生理研究の最先端の内容を教えてもらった。実際に東大農学部の圃場で5メートルx1メートルばかりの畑に苗木を植えて、その後5年間ばかり、ここで育てた茶樹の葉や根の観察や土壌分析を行った。また下記のように茶樹の水耕栽培でテアニン合成の研究をした。

  当時小生が(株)アロカと開発中のラジオアナライザーを用いて、茶樹では茶葉の旨味成分であるテアニン生合成について、根で
  
[14C-]エチルアミン+グルタミン酸→[14C]テアニン
 
の酵素反応が行われて、テアニンが地上部の茶葉に移行するという茶業試験場のこれまでの定説を確認した。そのうえで、一枚の茶葉や一本の根に直接[14C-]エチルアミンを吸収させるin vivo系で、根、葉ともに[14C-]標識テアニンが合成されることをさらに証明した。その葉でのテアニン合成酵素活性は根での活性の12.5~20.5分の一ぐらいであった。

森敏・保科次雄 茶葉のグルタミン酸アナログ化合物代謝研究へのラジオアミノ酸アナライザーの応用 日本土壌肥料学雑誌 54,109-116(1983)

  そんなことがあって、保科君の、茶業試験場の上司のつてで、農水省から「堆肥の熟度センサーの開発」名目で研究資金をいただき、ポータブルガスクロマトグラフィーを(株)センサーテックと共同開発した。この半導体センサーはアンモニアやエチレンに感度がよく堆肥の熟度検定や、現場での果実の追熟試験やアセチレン還元法による窒素固定研究など、農業の現場で汎用された。

森敏・木村郁彦 堆肥の熟度検定のためのガスセンサーの開発 日本土壌肥料学雑誌 55,109-116(1984)

  ある時、保科君の上司から彼がいる枕崎茶業試験場に熊澤先生と小生が招待されたことがある。どこかの宿で会食をしているときに、保科君の上司から、「保科君に論文博士号を授与していただけないだろうか」という提案があった。突然の事なので、熊澤先生は少し怒ったような口調で「それなら明日の朝までに論文要旨を書き上げて来なさい」と保科君にかなり無理無体の厳命をした。保科君はびっくり仰天して、その夜は徹夜で死ぬ思いで要旨を書き上げて顔を真っ赤にして、皆の朝食に間に合うように食卓に持参してきたと記憶している。

  この時だったと思うが、熊澤先生が保科君に
「君は今後どうしたいかね?」
と問いかけたら、保科君は、
「枕崎はワイフの里ですから居心地がいいです。できればずっとここに住みたいです」
と答えたもんだから、
「君は国家公務員なのに、なんて料簡が狭いんだ、もっと日本全国や世界にはばたけよ!」
と、酒の勢いもあってか熊澤先生から喝″を入れられていたのを覚えている。

  保科君はその後、無事博士号を取得し、静岡県金谷にある当時の茶業試験場に転勤した。そのころ、熊澤先生が金谷での「15Nを用いた研究法に関する講演会」を依頼されたので、小生と、女子栄養大学の吉田企世子教授もお供させていただいた。
  
  ここで試験場の研究者に初めて茶樹の根に下から適切な組成の水耕液を間歇的に噴霧して育てた、根が真っ白で網目模様の健全な茶樹を見せていただいて、大いに驚いた。樹木でも完全に水耕栽培で大木が育つことを初めて知ったのであった。

  熊沢先生の講演の後、皆で東大農芸化学科生化学教室の大先輩でオリザニン(ビタミンB1)の発見者である鈴木梅太郎先生の生家を訪ねた。生家は浜松の砂丘地にあった。わずか14歳の時に1888年5月15日 学問の情熱に燃えて鈴木梅太郎は 単身夜逃げして徒歩にて上京している。なので、その生家は梅太郎の兄弟の親族が住まわれていた。大きな鈴木梅太郎の顕彰碑が広い庭の隅に建っていたような薄覚えの記憶がある。当時の若きエリートの行動力に驚嘆したものだ。

  保科君が東京都の「特別栽培認証委員会」の委員長を2年間ばかり務められた時には小生も認証委員して同席し補佐したことがある。

  また彼が四国中国農試での場長のときに研究評価委員に呼ばれて水田直播用に開発された「鉄コーテイング種子」に関する研究員の評価をさせられたことがある。小生が鉄栄養の研究をやっていたからである。この研究者はのちに「日本土壌肥料学会賞」を授与されたと記憶している。

  この文章を書くにあたって、保科君の論文業績をいろいろのデータベースにアクセスして調べてみたが、総説1報、講演要旨1報、論文1報しか検出されなかった。小生は農水省内部での昇進人事のための業績評価基準を全く知らない。場長まで上り詰めたのだからたぶん保科君は農林行政で大いに敏腕を振るってきたのではないかと想像される。

  その証拠に東大の植物栄養・肥料学研究室の農水省に入省した小生の後輩達は、ほとんどレフェリー付きの学術誌にオリジナル論文を掲載していないが、結構皆さんが農水省内やその出先機関で出世している様子である。

  その後、保科君とは年賀状交換以外はあまり交流がなかったので、保科君がどのように職場を転々とされたのか記憶にないが、三重県津市に終生の居を構えていたようで、今回の奥さん(直美さん)からの喪中はがきは、そこから出されていた。

  保科君、いろいろお世話になりました。どうか安らかにお眠りください。

  合掌

  森敏