WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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なぞかけ:別府輝彦先生余話

Date: 2023-11-17 (Fri)

先日、89歳で亡くなられた別府輝彦先生の葬儀に参加した。以下思い出すままの別府先生と小生との余話です。

別府先生の農芸化学科時代の同期生で小生が直接接触したのは、平田煕(農工大学)、石塚晧造(筑波大学)、梅林正直(三重大学)さんたちである。平田さんはすでに逝去されている。

別府先生とは1970年前後には、東大農学部の2号館のRI実験室で一緒になったことがある。K-42という半減期が12時間と短く飛程の長いガンマ線核種を使って大腸菌のコリシンの作用機作の実験を盛んにやっていた。鉛のプロテクターをつけてはいたがご本人もギンギンに放射能を浴びていた。当時半減期が短いのでK-42核種はミリキューリー単位で使ってガイガーカウンターで測っていたと思う。その実験台の隣の実験台で小生も実験をやっていたので、サーベイメータを先生の方に向けて、小生に降りかかる放射線の音を聞きながら小生も実験をやっていた。別府先生は嫌な顔もせずに淡々と実験をされていた。

修士課程卒業後、万年助手で15年経過した1979年に、実に遅まきながら「そろそろ博士論文を提出したらどうか」という熊澤喜久雄教授の推薦で、急いでそれまでの論文を、当時池之端にあった「弥生会館」に一週間こもって書き上げた。博士論文は農芸化学科の教授会で、全員に回し読みされるのだが、大体表紙と目次だけ見るぐらいで終了する。後日別府先生に会ったときに「君の博士論文『植物の無機栄養説批判』非常に面白かったよ、リービッヒの像を君が梃子で倒そうというポンチ絵が良かった」と妙な評価をいただいた。

2010年に有機化学の出自の北原武さんと大類洋さんが共同で第100回学士院賞を受賞されたときは,確か半蔵門の東条会館で大々的な祝賀会が開催されて、小生も出席した。壇上に飾られている「学士院賞メダル」をめずらしそうにしげしげと眺めていると、別府先生が寄ってこられて、君の尊敬する人物は誰ですか?と全く久しぶりに声をかけていただいた。実に唐突なので、ちょっと考えて「坂本龍馬です」「なぜですか?」「高知県出身で世界を見据えたスケールの大きい人物でしたから」「ふーん?!」と少しあきれた顔をされてしまった覚えがある。(この時は有機化学の恩師松井正直先生も参加されていたが数年後に逝去された)。

小生は、2011年3月11日の東電福島第一原発事故後に頻繁に現地に出かけて生き物の放射能汚染の調査をしていて、原子炉から飛散した放射性核種110mAgが主に昆虫や小動物などに取り込まれて汚染されていることを、全く偶然に発見したので、最初の4年間のデータをまとめて論文にして、別府先生を通じて日本学士院が発行している欧文誌に投稿した。この論文には大いに自信があったので、すぐに受理されると思っていた。しかし、意外にも別府先生は慎重で、最終的に論文が発刊されるまでに1年もかかった。あとで聞いたところによると、別府先生は小生がいつも実験している東大RI研究施設にわざわざ出かけて行って施設見学までされて、共著者の田野井慶太郎君(現教授)などにもいろいろ質問して論文内容を完全に理解したそうである。またレフェリーとして分析化学出身の山崎素直名誉教授も加わったとのことである。字句の訂正や図表の削除などかなり手を加えられた。大いに不満だったのだが、云われるままに素直に従ったのがよかったのか、論文が『Proceedings OF The Japan Academy Series B』に掲載されて、電子書籍としてネット上でのダウンロード数は最初の1ヵ月で4000件にも上ったということで、日本学士院の中でも評判だったと人づてに聞きました。
(*Discovery of radioactive silver(110mAg) in spiders and other fauna in the terrestrial environment after the meltdown of Fukushima Dai-ichi nuclear power plant. Proc. Jpn. Acad. Ser. B 91(2015) )

上野の料亭(多分「海燕」)で2018年の農芸化学の名誉教授を囲む教員懇親会が行われたときには、小生は別府先生の隣に同席していたのだが、会が跳ねるころには「もう私のような老人が来ないほうがいいかな」と弱気なことをおっしゃったので、「そんなこと言わないでくださいよ、来年もぜひ来てください」と言った覚えがある。

この時有機化学の森謙治先生も別府先生の隣に出席されていたが、その後他界された。その森謙治先生の葬儀は文京区の西片教会で宣教師によって主催された。その時別府先生が森謙治先生の経歴と業績を、いつものように立て板に水のように、しかも理路整然と紹介された。実に熱烈な友情のこもった内容で感動した。

別府教授と森謙治教授は仲が良くて、毎週一回(土曜日の午後だと思うが)森先生が別府先生の教授室に出かけて、遅くまで酒を大声で酌み交わしていた。小生の所属していた植物栄養・肥料学研究室は別府教授室の隣であったので、助教授の北原武さんが二階の各研究室を回って、飲み友だちを探しに回る役(ファイアスト−ムをかける)をやらされていた、その最初の攻撃を受ける部屋であった。google scolarで調べると両教授には共著論文がある。


次の年の池之端の東天紅で行われた同じ懇親会には別府先生はお元気に出席されていた。その後、コロナ禍で懇親会が3回流れたが、今年2023年10月の「東天紅」での懇親会には別府先生は出席されなかった。体調でも悪いのかなと思っていたのだが、先日の先生の葬儀の時にわかったのは今年の6月ごろから体調を崩されて入院されていたとか。詳細は知らされていない。

別府先生の葬儀の詳細は省くが、先生の経歴は日蓮宗の僧侶のお経の中で紹介された。戒名は声がくぐもっていてよく聞こえなかった。小生は別府先生の納棺のときに足元に2輪の白いバラをそっと置いた。なぜだか別府先生の右の手元には夏目漱石の「吾輩は猫である」の岩波文庫が置かれていた。それ以外なにも置かれていなかった。ご遺体は300名にもわたる当日参会者の白色のバラ一色で埋め尽くされた。実にシンプルでした。これまでの別府先生との会話で夏目漱石の話は一言も聞いたことがなかったし、「吾輩は猫である」の話も聞いたことがなかったので、これは別府先生からの「なぞかけ」みたいな気がしましたね。発酵学教室の後輩の方には、ぜひこの“なぞ解き”をしてもらいたいものです。


合掌

森敏

追記:化学と生物4月号に、発酵学教室の(大西康夫,東京大学大学院農学生命科学研究科教授)が別府先生への思い出を述べておられるのでその末尾の文章を紹介する。

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別府先生は,上述の(文化勲章受章記念パーテイーの冒頭のスピーチで、「まだ沈まずや定遠は」という言葉のために,日清戦争の逸話の一節を紹介された.「まだ沈まずや」ということが言いたかっただけなのだが,とにかくそんな感じで何とかやっている今日この頃だと話された別府先生であったが,2023年6月に体調を崩され,その後は闘病生活を余儀なくされた.わたしは,入院前後に何度も,お話しする機会をいただいたが,正確にご自身の病状を把握され,それを詳細に話してくださった.入院後,前向きに治療に取り組まれる意欲を語られていたが,最期はご家族に見守られるなか安らかに旅立たれた.長きにわたり,農芸化学という学問領域の発展に尽力し続けてこられた別府先生のご冥福を心からお祈りしたい.別府先生,本当にありがとうございました.