WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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和田秀徳先生を偲ぶときに僕の語ること

Date: 2022-11-04 (Fri)

以下の回想記は

猫を棄てる 父親について語るときに僕の語ること 村上春樹 文芸春秋6月特別号


をもじって

和田秀徳先生を偲ぶときに僕の語ること

です。

  
  東大土壌学研究室の和田秀徳先生がなくなられてもう数年になる。最後に見かけたのは、いつだったか日時は忘れたが、有機化学研究室の教授であった「松井正直先生を偲ぶ会」が神保町の学士会館で行われた時だと記憶している。
   
  杖を突いて奥様(?)に付き添われて前かがみの余りにもよぼよぼの姿だったので最初は誰だかよくわからなかったのだが、後輩教授の松本聡さんが、椅子に座った先生に飲み物やスナックのお世話をされていたので、よく見ると和田先生と同定できた。あまりにも弱っておられる様子なので、ちょっとショックで話がつながらないのではないかと勝手に思って、ご挨拶ができなかった。
  
  その数年前には弥生講堂での誰かの講演会の時には、わざわざ傍聴席の小生の席に寄ってきて横に座って、演者に対しての批判的見解を、時々聞かせてくれたのを覚えている。なんでも定年退官後、最近はバングラデッシュでの土壌のヒ素汚染対策に取り組んでいるとの元気なお話でもあった。土壌や地下水からヒ素を取り除く方法の開発だったかと思う。その後それが現地で成功したのかどうか、小生には定かではない。
  
  1980年代初期のころの国際植物鉄栄養学会(ISINIP)のメンバーであったアメリカの土壌学者のProf. Roeppert が、研究資金の関係から、テーマを鉄栄養の研究からヒ素の研究に切り替えたことがあったので、バングラデッシュのヒ素問題の重要性は小生の頭の中には入っていた。しかしヒ素が、植物栄養学の最重要課題という認識がまだなかった。なので、和田先生の話も本当に実効性がある技術なのか、上の空で聞いていたと思う。
  
  小生が助手のころ、和田先生の220号の「土壌学教室」と小生の居室であった「肥料及び植物栄養学教室」の219号室は隣り合っていたので、和田先生はちょくちょく小生を冷やかしに入ってきた。何を話したのか今ではしかとは覚えていない。和田先生も助手や助教授の期間が相当長かったので、万年助手である小生に対しては非常に親近感があったものと思われる。
  
  同じように、同じフロアの生化学教室の原島先生も万年助手だったので、トイレの帰りに小生の部屋によく顔を出して雑談をしてくれていた。今思うに小生がよほど暇だと思ってくれていたのか、ご自分の欲求不満を小生との対話で解消していたのかもしれない。年下の小生はこの先生がたに対してはイエスマンだったので話しやすかったのだろうと思う。
  
  さらにさかのぼって1960年半ば、つまり小生が修士課程の大学院生のころ、和田先生が読書会を持ち掛けてきたことがあった。何でもテーマは数学の「群論」だという。群論の勉強は駒場のころ挑戦したがすぐに挫折した。そこで改めて和田先生の解説に付き合ったのだが3回も持たずに挫折した。他のメンバーも途中で挫折したと思う。
  
  当時なぜ和田先生が群論の勉強をしていたのか、今になって思うに、和田先生は、そのころ群論を用いて、土壌学を体系化しようとされていたのではないかと思う。和田先生が“動的マイクロペドロジー”に基づく水田土壌の研究 で日本農学賞を受章されたときの講演を東大の「化1教室」の後方で聞いたのだが、そこで和田先生は土壌の最小単位として〈pedon:ぺドン〉という概念を提唱されていた。延々お話しされたのだが、数学に弱く土壌学もいい加減にしか理解していなかった小生には全体の話にちんぷんかんぷんであった。その後このペドンという言葉がまったく土壌学の人口に膾炙されていないので、得意の「群論」から発想したと思われる和田土壌学は成功したとは思えない。
  
  和田先生に群論をレクチャーしてもらっているときに「先生はなぜそんなに数学に強いんですか?」と聞いたことがある。その時和田先生は「そうなんだよね僕は本当は数学科に進みたかったんだよ」という答えが返ってきたので小生は驚いた。健康上の理由でか、駒場での成績のせいでか定員が少なかった数学科に進めなかったのだろう。
  
  この年(81歳)になってみると駒場時代に数学コンプレックスで、理学部の物理学科や数学科に進学しなかった人物が農学部や理学部の植物学科や動物学科に進学した者が多いことがよくわかる。なぜか彼や彼女たちは生涯ずーと数学や物理学コンプレックスを引きずっているようだからである。農学部でも植物や動物の育種学の先生方は比較的数学に強いようである。それは推測統計学が品種改良の必須の手法だからであろう。
  
  小生は高木貞治の分厚い「解析概論」を大学入学時から長兄の俊一からもらい受けて、入学時から必死で独学で勉強していたのだが3分の一ぐらいのところでついていけなくなり完全に挫折した(安保闘争に振り回されたこともあり集中できなかった)。この「解析概論」本はカタカナで書かれた和紙で印刷されていたのであったが、兄から譲り受けたときは、書きこみもなく、さすがに俊一兄も読了できなくて、医学部に進学したようであった。
  
  一方、微分方程式の本を京都大学工学部を卒業して、室蘭製鋼(現・新日鉄)に就職した次兄「巍(たかし)」に譲りうけていたので、これはかなりのところまで独学で読み込んだのだが、変微分方程式が出てきたところで挫折した。兄は最後までこの本の演習題を解いていた形跡があるので、数理の頭がよかったんだと思ったことである。この兄は、大学受験目の「全国進学適性検査」のテストでも全国でトップだったことが自慢だった。
  
  本郷の農芸化学科に進学してからは、エントロピーのことをよく理解しようと思って「不可逆過程の熱力学」(著者は一橋大学の教授だったと思うが忘れた)を東大中央図書館で熟読した。そのころは東京学生会館という今の皇居の武道館ができる以前の建物(近衛連隊が去ったあとの寄宿舎)に寄宿していたが、4人の相部屋で、落ち着いて勉強ができなかったのだ。これは150ページばかりの薄い本で、最初は面白いと思ったのだが、半分ぐらい読んでいくうちについていけなくなり挫折した。つくづく数学の才能がない数理に強靭な頭で無いことを痛感した。
  
  ところで土壌学教室の教授になってからも、和田先生の勉強ぶりは驚異的であった。隣の部屋で昼食をしているときでも何時訪れても和田先生は文献を読みながら食事をされていた。結構大食漢であったと思うが「僕はいくら食事をしても肥満にならないんだ」と豪語していた。いつ見てもぎすぎすで、少し猫背であった。若い時に胃を切っていたと間接的に聞いていたので、当時は胃腸の代謝が少し変わっていたのではないかと思っていた。
  
  後年になって、世の中には遺伝的に太らない体質の人がいるということを知った。近年流行の「エピジェネテイックな遺伝子」の話の代表例として、女優のオードリーヘップバーンがなぜキュートなままなのかが遺伝学の教科書で取り上げられていることを知ったのは、それから30年ばかり後のことである。
   
  和田先生とは研究上の交流では以下のことがあった。
  
  小生は岩手大学の高城成一先生の教えを受けて、農学部の圃場の大ガラス室でオオムギの水耕栽培を繰り返していた。農学部の圃場の水道水は鉄管が旧くて鉄さびだらけで、なかなかオオムギの鉄欠乏クロロシスのきれいな症状を再現することができなかったのだが、半年ぐらいの努力の末に、2000分の一アールの新しいプラスチックポットにプラスチックのざるに穴をあけてオオムギ幼植物の基部をきれいなウレタンでくるんで穴に差し込むという手法と、水道水を100Lの蓋つきポリペール缶に汲んで、いったん鉄を沈殿させておいて、翌日その上澄みで水耕液を作成する、という方法で、うまく激甚な鉄欠乏症を作ることができるようになった。
  
  ある時圃場のガラス室でその作業をしていると、和田先生が見学にきた。
強度に鉄欠乏を呈したオオムギの根には不思議なカルス状の菌が付着しているのを見て、「その根を少し分けてくれないか?」というので「いいですよ」と言って切り取って分譲した。
  
  それから2年後1989年に日本土壌肥料学会誌に渡辺聡・和田秀徳の連名で
  
鉄欠乏水耕オオムギからのムギネ酸分解菌の分離

という論文が掲載された。この時は和田先生のはしっこい嗅覚には驚嘆した。一応この論文には小生(森敏)に謝辞が述べられているが、残念ながらこの論文よりも先に発表されていた我々の1987年の最重要論文(メチオニンがムギネ酸の前駆体であるという発見:Plant Cell Physiology)が引用されていない。
   
  この渡辺・和田論文は、日本語であったが、極めて先駆的な研究であった。彼らの同定によるとムギネ酸分解菌はPseudomonasの系統と思われた。その菌を分譲してもらって当時の西澤直子研究員は、この菌の電子顕微鏡写真を急速凍結法で固定して観察したが、内部構造は極めて単純な菌であった。

  これを国際学会で発表したら、ホーエンハイム大学のマーシュナー教授が「大学の講義で使いたいから、電顕写真をスライドでくれないか?」と頼まれたので、帰国して航空便で送った。しかしその20年後あたりに、小生が西澤さんにこの電顕写真のありかを聞いたのだが、彼女自身も、いつの間にかどこかに紛失したようである。
    
  この菌の研究の発展が期待され、筆頭著者の渡辺君は助手に採用されたが、残念なことに、彼はその後、精神的な病で自死した。根圏微生物の研究の新しい展開が絶たれてしまったのは返す返すも残念なことであった。
    
  和田先生の言葉で今も時々思い出すのは次の3点である。
  
1.「意義ある研究とは、そのテーマでたくさんの研究者を食わせることである。」つまり良い発見や発明の場合はそのテーマの波及効果が大きく、多くの研究者が研究費を獲得する(つまり食わせる)ことができ、研究のすそ野が広がる。
  
2.「結局アメリカに日本は従属するしか生きていけないよ。」
この言葉は第二次安保闘争の1970年ごろに語られた言葉だったので、当時の小生には「なんて独立心のない事大主義なんだろう!」と思われたのだが、現在日本の経済・軍事・科学技術などのあらゆる分野でいわゆる国力が中国に追い越されて、下手をすると中国に飲み込まれようとしていることから考えても、至言であったと思う。
  
3.「日本人は米と味噌と醤油があれば外国どこでも生きていける」
これは和田先生が助教授の時に確かIAEAかどこかに単身で1年間留学して帰ってきてから聞かされた言葉である。孤独に清貧に甘んじて、食事中も一所懸命勉強してきたであろうことが、この言葉から伺われたことである。