WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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山田康之先生余話

Date: 2021-10-30 (Sat)

山田康之先生余話

山田康之先生(奈良先端科学技術大学院大学元学長、京都大学名誉教授)が2021年8月15日に逝去された(享年89歳)と新聞紙上で知った。

先生の紹介は以下のように簡単に新聞上では紹介されている。

イネの培養細胞からイネの個体を再生することに世界で初めて成功し、植物バイオテクノロジーの第一人者として知られた。1991年 日本学士院賞、1999年に文化功労者。2012年には文化勲章を受章した。京都大農学部教授などを経て、97年から01年まで奈良先端科学技術大学院大の学長を務めた。日本人の全米科学アカデミー外国人会員であった。
  
以下に小生の山田先生との少ない個人的な体験を前後の脈絡なく紹介したい。
  
山田先生は京都大学の農芸化学科の肥料学研究室(奥田東教授)の出自である。奥田東教授はのちに京都大学の総長となり、1970年代の京都大学の学園闘争の時には、学生と対峙して、ひるまなかった大人である。そういう奥田先生を慕って、山田先生はここに卒論に入ったのかもしれない。なお奥田先生は農業技術研究所時代は小生の上司である三井進午教授と親しくしていたと三井先生から聞いている。
  
小生が山田康之先生を直接知ったのは、1967年に山田先生が助教授になって日本土壌肥料学会での講演を聞いてからだとおぼろげながら記憶する。山田先生は助手の時代に、フルブライト資金でミシガン大学のBukovacのところで尿素の葉面散布の研究をしているうちに、実験系を単純化するために葉の遊離細胞を作成して、尿素の遊離細胞への吸収のカイネテイックスをやっていた。そこから、植物の培養細胞の研究に入っていったらしい。
  
その後細かいことは覚えていないが、帰国してから以下の論文に記されているように、イネやライムギなどの単子葉植物を、組織から脱分化させて、そのカルスから一本の植物に再生することに成功した。世界の研究者はタバコなどの双子葉植物に関してはMurashige/Skoog培地からは、組織の分化と再生に成功していたのだが、主要穀物である単子葉植物のイネでの成功へむけて遅々として研究が進まなかったのである。
  
Y. Yamada, K. Tanaka and E. Takahashi callus induction in rice, Oryza sativa L. Proc. Japan Academy, 43,156-160(1967)
   
Tissue culture of oats Carter, Y. Yamada & E. Takahashi
(1967) Nature 214, 1029.
  
Organ redifferentiation and plant restoration in rice callusT. Nishi, Y. Yamada & E. Takahashi (1968) Nature 219, 508
   
1970年代には、生化学若手の会というのが起ち上げられて、学際的に全国の大学の若手研究者たちが、毎年夏休みに蔵王の遠苅田温泉や島根の大山の温泉で合宿形式で集会を開いていた。それには小生も参加していた。ある年に島根県の大山のふもとの旅館で開催されたその集会に、小生は、気鋭の山田先生に講演をお願いした。先生は快く引き受けてくれた。

その時の講演で、オーバーヘッドプロジェクター(当時はまだパワーポイントは普及していなかった)で見せてくれた「このカルスの中から立ち上がっている細胞塊はだめで、緑色の細胞塊を拾って、移植を繰り返して選抜を続けると、一本のイネに成長したんだ」という感動を語ってくれた。細かいことは忘れたが、オーキシンとサイトカイニンの濃度を高濃度にいろいろと変えるという話だったと思う。
   
1970年代は小生自身が有機農業研究会などの紹介で有機農業現場を見て回りアミノ酸などの有機物が唯一の窒素源として直接水稲やオオムギで吸収されて実るかどうか、などの「植物の無機栄養説批判」という野蛮で大胆な研究を行っていた。研究費を稼ぐ意識は全くなく、もっぱら肥料学研究室のスタッフが稼いだお金を自由自在に使わせていただいていた。贅沢な時代だった。
  
1980年代に入ってから、九州大学の植物栄養学研究室の山田芳雄教授によるプロジェクトが発足して、小生のことをなぜか可哀そうに思ったのか、その研究班のメンバーに入れていただいた。そこで一所懸命業績を出さねばと思い、竹林信夫君に卒論から修士課程にわたって、土耕栽培と水耕栽培で、塩類ストレスの研究をやってもらった。竹林君は同時に二次元電気泳動のエキスパートになってもらった。修士論文の成果として、

オオムギ根中の NaCl ストレス関連ペプチド林伸夫, 蜂須賀正章, 森敏 - 日本土壌肥料学雑誌, 1987
  
を上梓した。この論文では塩類ストレスでオオムギの根に顕著に2つの低分子ペプチドが出現する、というものであった。当時まだサンガー法によるタンパクのアミノ酸配列の決定の技術が、東大農学部では順番待ちであったので、未決定のまま発表したのであった。
  
ある時、山田康之先生が突然219号の小生の研究室を訪れてきた。「東大で会議があったついでに立ち寄ったんだ、久しぶりに君の研究を激励に来たんだ」と言って、京都の名前は忘れたが有名菓子メーカーの「お団子」をわざわざお土産にいただいた。話しているうちに、あの土壌肥料学雑誌の塩類ストレスの研究をまだ続けていますか? というので、いや、塩類ストレスの研究から現在はムギネ酸の研究に全面的にシフトしています。と答えておいた。
  
それから4年後に、山田康之先生一派はタバコの培養細胞から塩類ストレスで誘導されるosmotin様タンパクを同定して、そのアミノ酸配列を決定して発表した。残念ながら我々の研究は引用されていない。
  
Takeda S, Sato F, Ida K, Yamada Y (1990) Characterization of polypeptides that accumulate in cultured Nicotiana tabacum cells. Plant Cell Physiol 31: 215-221
  
Nucleotide sequence of a cDNA for osmotin-like protein from cultured tobacco cells
S Takeda, F Sato, K Ida, Y Yamada - Plant physiology, 1991
  
小生の研究が有機物吸収の研究からテーマをムギネ酸の生合成研究にシフトしたころに、ムギネ酸発見者である高城成一先生を統括にして「植物の鉄栄養研究」のプロジェクトを企画することを考えた。高城先生はそういう事務的な作業があまり得意ではなさそうだったのだが、重い腰を上げてくれて高城先生の名で小生も班員に加えていただき科研費の申請を行ってくれた。
   
ある時、東大のRI室で実験をやっているときに、山田康之先生から突然外線電話がかかってきた。ムギネ酸研究プロジェクトについてかなり詳しく説明を求められた。「将来は大型の研究プロジェクトにしたいのですが」というと、「うーん、ムギネ酸だけじゃあまり大きく世界に羽ばたけないんじゃないか?」とムギネ酸研究の将来展望にはすこし否定的であった。それでも評価委員に山田康之先生の名前を入れていたためか、この科研費は無事通過した。当時では2年間で総額がわずかに800万円ぐらいだったと思う。
   
このプロジェクトの初めての会合を高城成一先生の所属する岩手大学で行ったときは山田先生も京都から遠路参加して活発な議論をしていただいた。発表会が終わって夕食の時には、京都料理で口の肥えた山田先生は「盛岡で一番おいしい店にいこうぜ!」といったのだが、ド田舎の都会の盛岡に美食を求めても無理だよ、という高城先生の意見で、結局大学の近所のお蕎麦屋さんで皆で天ぷらそばを食べた。きっと「この研究班はどいつもこいつも地味なやつばかりだなー」と思ったことだろう。
   
平成7年(1995年)に小生は科学技術庁(現在はJST:科学技術振興事業団)が初めて企画したCREST(戦略的基礎研究)に植物学分野で辛くも採用されたのだが、確か2−3年後には広島大学の森川弘道教授も採択された。彼は山田康之先生の弟子で、助教授時代は金粒子に遺伝子をまぶしてカルスに直接導入するパーテイクルガンによる手法では本邦初演のエキスパートであるという噂であった。ご本人によると、パーテイクルガンによる無菌操作の時は、非常な緊張を強いられた。前日から「斎戒沐浴してやれ」、と山田先生にはプレッシャーをかけられていたと言っていた。無菌化カステンの中で誰でもできる今では笑い話のような話だが。残念なことに、この森川さんは若くして癌で現役中に亡くなられた。
   
山田康之先生は学士院賞ののち、文化功労者(1999年)を受賞したが、その祝賀会が京都の宝ヶ池の国際会議場であるから参加しないかという招待状を関係者からいただいた。喜んで参加したら、なんと普段接していない高齢のお偉方の研究者たちが前列に座っておられ、多分500名ぐらい参加しているのには心底驚いた。先生の学術界での影響力を目の当たりにした。

そこでは、アメリカ人の山田夫人が日本の欧文誌の文章校正に多大なる貢献をされているということを初めて知らされた。1980年代のAgr. Biol. Chem.(現在のBioscience. Biotechnology and Biochemistry)やSSPN(Soil Science and Plant Nutrition)やPCP(Plant and Cell Physiology)の小生の論文はいつも赤字で丁寧に修文されて帰ってきていたのだが、そのどれかはきっと山田夫人の手を煩わせていたことだろうと改めて感謝した。祝賀会場に入るときに山田先生と握手して、会場を出るときにも列に並んで、また握手しようとしたら「あ、お前!」と一度手を引っ込められたけれども、結局握手していただいた。実に妙な気分だったね。
  
  山田先生はいつのころからか前立腺がんの手術を受けて、予後が芳しくないと人づてに聞いていた。30年前ごろは、まだ現今の内部線源照射や外部線源照射や放医研でのサイクロトロンによるポジトロン照射などのテクニックはなかったので、泌尿器科の医者はすぐに前立腺を切除したようだ。手術が下手だと後遺症が残りいわゆるQuality of Lifeがよくないので、不愉快な人生を送る羽目になると聞いていたので、陰ながらずーっと心配していた。年賀状の交換もいつのころからか途切れてしまったままであった。
  
  山田先生が2012年に山中伸弥さんと文化勲章を授与された時の、文化の日の皇居の庭園でのニュース映像では、山田先生は小柄になって杖を突いて歩きにくそうではあったが、実に晴れやかな表情であるので一安心した。

  出自が小生と同じ植物栄養学の分野から、次々と果敢に新しい学問領域を切り開かれ、なおかつ優秀なお弟子さんを数多く育ててこられた山田康之先生を、小生は心から尊敬し続けている。
   
(森 敏)
  
(以上の記述には誤解も多いことと思う。関係者には卒寿に免じてください)