WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
転載希望時は連絡先まで

高井康雄先生余話

Date: 2021-10-20 (Wed)

最近届いた日本土壌肥料学雑誌の表紙の見開きに、高井康雄先生(1924−2021)の写真が掲載されていて、驚いた。96歳で逝去されたと書かれている。詳細な長い弔文が、高井先生の業績の紹介とともに、現在の東大土壌学研究室の教授であり日本土壌肥料学会会長妹尾啓史氏によって書かれている。

なのでここでは小生の個人的な体験を前後の脈絡なくざっくばらんに述べたい。

小生が東大農芸化学科に進学した駒場での2年生の時の「土壌学」の授業は弘法健三教授が行っており、高井康雄先生は助教授として名古屋大学から赴任してきたばかりであった。熊田恭一先生との交換人事であったと聞いている。本郷での3,4年生の時は弘法教授の「土壌改良学」のようなタイトルの授業があった。ひたすらぼそぼそ言いながら嬉しそうに板書する弘法先生の授業は小生には全くの苦手であった。眠くて仕方がなかった。何を言っているのか理解できなくて、期末試験の時はいつも同じ学生実験台にいる村山昭君のノートを借りて、一夜漬けで回答した。村山君は実にノートの取り方が上手で、受験した全科目が「優」という兵(つわもの)であった。
   
  このように授業態度が悪く、試験の成績も「良」か「可」であった。本郷弥生のおでん屋の「呑気」は、飲み屋を兼ねた農学部の教授達のたまり場であったが、小生はそこで「この不良が!!」と弘法先生にいきなり面罵されたことがある。それもあってかすっかり土壌学が嫌(きらい)になってしまった。
   
  のちに土壌学教室の教授になった松本聰さんは、「弘法先生の授業が面白くて仕方がなかった!」と土壌学教室を卒論に選んだので、一期一会というか蓼食う虫も好き好きなんですね。
        
大学院での修士課程での授業は高井康雄先生の「土壌微生物学」を受講した。これはB4判の英文の100ページばかりの「soil microbiology」(?著者名は忘れた)という本を、輪読するスタイルであった。高井先生は、我々大学院生が訳するのを、ただただ聞いて誤訳を訂正してくれるだけで、何も積極的な発信をしなかった。あまり印象がない。小生は翻訳が苦手で、複雑怪奇な系である「土壌圏」の中での土壌微生物って、学問の対象になりうるんだろうか、という疑問を最後まで払しょくしきれなかった。本の中身は徹底的に微生物の培養法や分類と生理学の現象論だったと思う。

  学部4年生の時の授業で「発酵学」の有馬啓教授は、卒論は肥料学教室でテーマは根粒菌による窒素固定だったそうだ。しかし根粒菌のテーマをやっているうちに、「こんなもの学問じゃないや!」と感じて、大学院は坂口謹一郎教授の「発酵学研究室」を選んだということだった。土壌学教室や肥料学(現 植物栄養・肥料学)教室で行っている微生物学は「何やってんだかよくわからない」と授業では公言していた。小生は化1の教室の一番前でその講義を聞いていたのだが、すでに三井進午教授の肥料学教室で卒論をやっていたので、そんなものかな、とその勢いに気おされた。当時は純粋に単離が可能な菌株の生理生化学が驀進しているときだったのである。大腸菌に関しては全遺伝子が徐々に読まれ始めていた。

  高井先生が土壌学教室の教授になってからの研究内容は、上記妹尾教授によって紹介されていることはすでに述べた。高井先生の教授昇格後の助教授には和田秀徳助手が就任した。和田先生は助手の期間が長かったので、同じく助手の期間が長かった小生はこの和田先生にはかなり親しくしてもらっていた。小生の助手や助教授時代の219号の部屋に和田先生は高井先生の後任の教授になられてからもたびたび立ち寄り、雑談をしていかれた。東大の弥生キャンパスの農学部圃場の田無火山灰土壌での、高井先生が発想した「土壌菌によるBHC分解能の馴化」に関する重大な発見は、間接的に和田先生から聞いていた。話を単純化すると、土壌でのBHCの分解速度が、投与するたびに早くなっていく、という現象の発見である。
    
  そのBHCの分解菌の単離に成功したのが、当時大学院生であった妹尾啓史君であった。そのころから、あらゆる生物学分野では遺伝子解析が急速に進み始めていたのであったが、土壌学研究室ではその手法がまだ手についていなかった。なので、和田先生によれば「このBHC分解菌は微生物研究室の矢野圭司教授に渡した。微生物の専門家に分解経路や遺伝子解析をやってもらった方が早く学問が進むだろう」という話であった。この話を聴いて、「なんてもったいないことをするんですか?!」と、自分の研究室の成果ではないので余計なおせっかいだったのだが、和田先生を強く詰(なじ)ったものだった。そのころ妹尾君がどういう振る舞いをしたのかの詳細は存じないが。大人(たいじん)の妹尾君は淡々として悔しがったりはしなかったのかもしれない。

  BHC分解の作用機作や遺伝子解析は矢野圭司研究室で飛躍的に進んだ。矢野先生が新設の長岡技術科学大学に移ってから研究はさらに加速した。それとともに世界では農薬として使われている有機塩素剤の分解の機作が次々に明らかにされた。人が有機合成したBHCの分解菌が、自然界に存在しているんだ、という発見は、流行の嚆矢となったものである。

 小生は高井先生には直接研究上の指導を受けたわけではないが、大いに迷惑をおかけしたことがある。
    
  1960年から70年代は全国的な学園闘争、第二次安保闘争、三里塚闘争、学内的には地震研闘争、臨職闘争など、が吹き荒れ、多くの市民や学生や教職員が、逮捕された。細かいことは今となっては忘却の彼方だが、小生も二度ばかり逮捕された。逮捕されると12日間の検事による尋問ののちに、起訴か不起訴かが決まる。そのどちらかの逮捕当時、農芸化学科の学科主任であった高井先生は、わざわざ小生が拘留されている本富士署に出かけて「森君は、教育研究になくてはならない有意な人材だから、何とかご高配を賜りたい」と頭を下げにいったとのことである。そのおかげでか、小生は2回とも起訴されずに済んだ。この事を朋友磯貝彰君から聞かされたのは、拘置所から出所して20年ぐらい後のことである。政治的には確信犯である小生は、もともと不当逮捕であるという意識が強かったので、不起訴に関して誰かが手をまわしてくれたとは全く思っていなかった。だから高井先生にご挨拶に行くわけがなかった。

  ある時、根津駅から言問い通りを上っているときに急に雨が降ってきたので傘をさして歩いていたら、前を高井先生がびしょぬれになりながら歩いていたので、駆け寄って、なんとなくぎこちなく相合傘で歩いていたのだが、途中の印刷所まで来たときに「僕はちょっと寄っていくから」と先生は店に飛び込んだことがある。「嫌われているんだなー、」と思ったことである。磯貝君の打ち明け話を知る前のことである。高井先生は小生のことをずっと「この恩知らずめ!」と思っていたことだろう。

  数年前のことであるが、いつもいただく三井研究室の同窓の大先輩の高遠宏さんの年賀状に、彼がスイスの山登りの後にチェコに住んでいる高井先生を訪れたという報告が記されていた。高井先生は助教授の時にチェコに留学されたことがあり、定年後、最愛の奥さんをなくされた後、しばらくして、その留学時の恋人といっしょにチェコで余生を送っておられるとの何気ない内容であった。これは実に新鮮な報告だった。その後、日本土壌肥料学会がつくば大学かどこかであったときに、高井先生による日本の水田土壌化学の懐旧談の講演があった。高井先生はそのためにわざわざチェコから帰国されたのだが、頭がつるっぱげのピカピカになっていた。挨拶に行くと「や―森君!!」とにこにこ声をかけてくれた。じつに健康そのものに見えた。

  高井先生は無教会派で、なんとなくhigh browな、高貴な趣味人の雰囲気があった。スキーの名手だったということである。年の差もあったが小生のようなガサツな野蛮人は、相手にもならなかったようだ。
    
(文中誤解だらけだと思います。卒寿に免じてください)