WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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高城成一先生の墓前にて

Date: 2017-09-06 (Wed)

日本土壌肥料学会が仙台の青葉山キャンパスで9月4日から7日まで開催された。
   
5日の午後の受賞講演をエスケイプして、仙台駅から歩いて1時間かかって探し回ってやっと松源寺についた。東北学院大と広瀬川にはさまれた場所であった。確か、この付近に晩年の高城成一先生はマンションを購入されてそこで逝去されたのだった。小生はインタビューに訪れたことがあったのだが、広瀬川沿いにあるどのマンションだったか全く記憶に残っていなかった。わずかに10年前のことなのに。晩年の高城先生は、広瀬川の対岸に伊達正宗を祭っている「ずいほう寺」がある大文字山(?)がみえるので、住宅を引き払ってそのマンションを購入したということであった。冷静沈着な高城先生は意外にも伊達正宗の大のファンであったのだ。

実は松源寺は高城先生の菩提寺のはずである。(平成20年12月6日84歳で逝去)。今回初めて訪れたのだが、無数のお墓のどれが高城先生のお墓なのかわかるはずがないのでまず事務所にお邪魔した。
「昔お世話になった高城成一先生のお墓があると聞いてきたのですが、どこにお墓があるのかわかりません。ご案内いただけないでしょうか?」
小太りの女性が出てきて、
「はい、わかりました。お探ししてみます。少々お待ちください」
といって、30分ばかり待たされた後、
「ずいぶんお待たせいたしました。やっとわかりました。お墓の持ち主が変わっていたのでなかなか探せませんでしたが、わかりました。ご案内いたします」
ということで、薄墨色の特徴あるお墓に案内された。「高城家の墓」と彫りこまれていた。
多分平成23年(2011年)の東日本大震災でここら辺のお墓はひっくり返ったと想像されるのだが、6年経ってすべて修復されたのか、全部墓石が正立していた。もちろん高城家の墓も。ところがよく見ると、このお墓の墓碑銘の最後に記された悦子夫人の逝去が平成24年(2012年)なので、たとえ2011年3月11日の大震災でお墓が倒壊したとしても、当時ご存命だった賢明な悦子夫人はきちんとお墓を修復されたものと想像した。

墓碑銘には、父「安」(昭和32年59歳で没)、母「梅」(平成2年四月11日87歳で没)が記載されていたので、高城先生はこのお墓を昭和32年か、平成2年にはすでに建立されていたのだということが分かった。

だれからも連絡がなかったので知らなかったのだが、平成24年3月31日に悦子夫人も86歳で逝去されたことが墓碑銘に書かれていた。御自分がなくなるまでは墓守は悦子夫人が行っていたのだろうが、その後は3人の娘さんのうちのどなたかが、墓守をしているのだろうと思われた。高城という名前で探してもお寺の名簿で見当たらなかったのは、結婚されて改姓された娘さんのお名前で、登録されているからだということなのだろう。今年の春のお彼岸の日にはこの3人お娘さんたちが訪れたということを、先ほどの女性から聞いた。

お寺を探すのに気がとられていたので、お寺は見つかった、お墓は見つかったのだが、お墓に生けるお花を入手するのをすっかり忘れていた。先ほどの女性に聞くと近くに花屋さんは無いということであった。数百と思われるお墓を抱えている歴史あるお寺の近くに花屋さんがないとは。やむなくお寺を出て、東北学院前の裏通りをしばらく歩いてSEIYUという看板が見えたので、そこにいくとわずかに地味な墓参り用の花のコーナーが入口に狭く設けられていた。それらを購入して松源寺に戻って、高城先生のお墓に生けた。井戸水をバケツに汲んで、墓石の頭から何度もかけた。まだ墓石にはコケはむしていなかったのだが、墓のまわりに彼岸花の芽が数十本抽苔していて、今まさに花が開かんとしていた。明後日には開花しているに違いない。
    
以上の一連の作業をやりながら、生前の寡黙な高城先生との全部合わせても数十時間にはならない会話ではあったが、そのやり取りを思い浮かべながら、いろいろと考えるところがあった。「鉄欠乏のオオムギの根からムギネ酸という鉄キレート化合が分泌されている」という高城先生の偉業が、直近の四半世紀のあいだに植物栄養学のパラダイムを変換させた。「植物は積極的に不利な土壌条件を根からいろいろな化合物を分泌しながら、長い年月をかけて改変しているのだ」ということは今や世界の植物栄養学の指導理念となっている。それで多くの研究者が飯を食っているのだ。しかし、時代の流れとともにそういう先生の業績も次第に学会では忘れられていく。なので、小生も学会では老骨にムチ打って時々発言して、過去の仕事を紹介して、踏み台になった高城先生の研究を無視しないように若い研究者に語り部として注意を喚起する必要があるのだな、ということを再確認することにもなった。講演会場で「また老人が立ち上がって同じことを質問している」、と煙たがられても、やらねばと。

(森敏)
PS:ひょんなことで、広瀬川をうたった「青葉城恋歌」をネットで聞く機会があった。高城先生のお墓の前でこの歌を聞けば、感慨ひとしおであろうと思ったことである。高城先生はシューベルトの「鱒(ます)」を口ずさんでいたとのことであるが。この歌も愛していたのではないだろうか、と勝手に想像した。

歌詞は以下に

青葉城恋唄
【作詞】星間 船一
【作曲】さとう宗幸
 
広瀬川 流れる岸辺 想い出は かえらず
早瀬 おどる光に ゆれていた 君のひとみ
季節(とき)は巡り また夏が来て
 あの日と同じ 流れの岸
 瀬音ゆかしき 杜のみやこ
 あの人は もういない
   
七夕の かざりはゆれて 思い出は かえらず
夜空 かがやく星に 願いをこめた 君のささやき
 季節(とき)は巡り また夏が来て
 あの日と同じ 七夕まつり
 葉ずれさやけき 杜のみやこ
 あの人は もういない
    
青葉通り 薫る葉みどり 思い出は かえらず
木かげ こぼれる灯火に ぬれていた 君のほほ
 季節(とき)は巡り また夏が来て
 あの日と同じ 通りの角
 吹く風やさしき 杜のみやこ
 あの人は もういない
      


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高城成一先生と悦子夫人のお墓/松源寺