WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
転載希望時は連絡先まで

内野弘さんとは楽しい思い出ばかり

Date: 2020-06-24 (Wed)

以下の雑文は、記録にとどめるための、内野弘さんとの思い出話です。内野さんのことを語りながら、当時の東大農芸化学科植物栄養肥料学研研究室のごく一側面ですが、その実態を、紹介しました。現存する関係者には不快な思いをさせる部分もあるかもしれませんが、過ぎ去ったことですから平にご容赦ください。小生もあまり先がないもんで。。。。 (森敏)
    
  
    
 内野さんの逝去のはがきを昨年末に奥さんの妙子さんから頂いた。5月25日死亡とあるが、死亡の原因は書かれていなかった。彼のふだんからの細やかな気使いからしてして葬儀には東大関係者は呼ばれなかったのだろう。内野さんとは10年以上前、小生の東大定年退官記念パーテイーに参加していただいてお祝儀をいただいて以来、年賀状だけの付き合いになっていた。その後も、時々行われている植物栄養肥料学研究室の同窓会には全く出席されなかった。

ご家族のこと

 内野さんが東大で現役の時は定年になる途中まで、我々は彼のことを渡会(わたらい)さんと呼んでいた(学園闘争の後はあとで述べるように「ボス」という愛称で呼んでいた)。渡会さんは、彼が若い時、バンタム級の3回戦ボーイのボクサーだったので、この渡会の名字で呼ばれることを好んでいたからだ。彼のおとーさんかおかーさんが渡会の姓であり、ご両親が離婚されて、定かではないが内野姓にもどったと聞いている。それを契機に土地を譲りうけた川越市にいつか転居しようと思っている、としばしば聞かされていた。渡会さんがまだ独身の時に、東京農業大学で日本土壌肥料学会があった。その時に、渡会さんがおかーさんと同居している大学付近の世田谷のご自宅を訪ねたことがある。敷地内に貸家を経営しているおかーさんと、塾の試験問題の採点などで生計を立てている弟さんがおられるとのことでした。弟さんが人と接触するのが苦手で頭が痛いようなことを言っていた。いまでいう「引きこもり」だったのかもしれない。

 伊勢神宮のあたりに度会(わたらい)町というのがあり、いつだったか彼と他何人かのメンバーと一緒に名古屋大学での日本土壌肥料学会が終わった続きに、近鉄で伊勢神宮に参拝に行きました。五十鈴川で顔や手足を禊(みそぎ)ながら、この川の上流が渡会さんの遠いご先祖の出生地ですか? と尋ねたら、そうではないと思うという返事でした。「渡会」と「度会」とは字が違うけれど、日本の氏(うじ)素性は明治維新の時に適当に改名されているので、本当にところはどうだか、彼もよく知らないようでした。

 内野さんはご家族のことはほとんど語りませんでした。渡会さんがいつ結婚されたか全く記憶にないのですが、奥さんは100メートルの中学校女子の日本記録を持っているとのことでした。しかし、いつだったかその運動神経抜群の奥さんが「::::病になって脳の切開手術をするんだ」。といつになく非常に不安そうな顔つきをしたことがあります。今回の喪中はがきを奥さんの妙子さんからいただいたので、手術は完全に成功していたのだ。また、ある時は長男が演劇に凝っていて俳優になる学校に通っているということで、「将来どうやって食っていくんだろう」とこのご長男の教育には困惑してお手上げの様子でした。それに対して長女がピアノを習っているんだが、看護婦養成関連の学校に行っているので、こちらのほうは安心だと嬉しそうでした。

 一度も詳しいことは聞いたことがないのですが(いつも余りしゃべりたくない様子だったので)、内野さんは都立園芸高校の出身で、東大には1955年ごろ当時の東大農学部肥料学教室(三井進午教授)に技官として採用されたようです。かねがね辻村克良助教授(のちに新設の東北大学食品化学科の教授に転職)を非常に尊敬していたので、思うに、辻村先生が根粒菌の植え継ぎと全国への根粒菌株の配布業務の要員として技官として彼を採用したのではないかと思います。辻村先生の専門は根粒菌の生理生態学でした。小生から見れば内野さんは、のちに述べるように、生涯「遊び人」だったけれども、この根粒菌の植え継ぎ業務だけはきちんと遂行していたし、自信をもってやっていました。

 小生は、学部の3年生の時の農芸化学科での学生実験で微生物実験を教わったのですが、そのときよりも、内野さんから詳しくオートクレーグ操作や、カステン内での無菌操作を教わったことのほうがはるかに身についていると思います。また当時のカメラは最近と違って、フイルムがアナログでシャッターも、自動ではなかったので、細かな写真撮影の手技や、暗室での白黒写真のフィルム現像も彼から実に詳しく教えてもらいました。これは放射能実験に用いるX線フィルムのオートラジオグラフの現像にも非常に役に立っております。この暗室での現像の手技は小生の息子にも手取り足取り教えたことがあり、その現像の実技試験も一つの評価の点数として、息子は講談社出版社に採用され写真部で現在生計を立てています。だから内野さんにはこの点でも大いに感謝しております。

 小生が肥料学研究室に卒論生として入った当時には、この根粒菌の業務に、文科省から長期にわたって恒常的に「遊離窒素固定資金(正確な名前は忘れたが)」として年間30万円の委託研究費がついていました。当時としては結構な額だったと思いますが、物価が上昇しても、この研究費は一定額から一銭も上昇していかなかった。内野さんが定年で退職してからこれをやる人物がいなくなり、しばらくは、茅野教授自身がやっていたのですが、だんだん農家や試験場からの配布の要請が来なくなってきて、結局応用微生物研究所(のちに分子生命科学研究所、現・定量化学研究所)の菌の分類保存を主としていた第三研究室(飯塚広教授研究室)に菌株が移管され、業務も無くなったと記憶しています。今どうなっているのかは知りませんが。

 内野さんは遊び人で、彼からは、いろいろな「よいこと」、「面白いこと」、「いけないこと」を学びました。それをこれから前後の脈略なく紹介したいと思います。

社交ダンスのこと
 
彼はどこで習ったのか、ジルバ、ワルツ、タンゴ、ルンバ、チャチャチャ、ブルースなどすべての社交ダンスを実に滑らかに踊れました。小生はタンゴ、チャチャチャ、は絶対踊れなかったし、ジルバでは時々女の子を回しすぎて、倒したりして、顰蹙を買っていました。内野さんには「ビンちゃんそれじゃーまるで体操だよ」といつも笑われていました。だいたいいつも6時過ぎに湯島にあるラジオ会館(?)で、東大ダンスクラブ(?)が主催する「ダンス講習会」に参加していました。参加費は当時300円以下だったと思います。いつも100人ぐらいの若者が踊っていました。内野技官、西村靖彦(放射性同位元素施設所属)技官、大学院生芦沢眞君、中国人の譚健栄さん、研究生の米沢茂人さん、住友化学からの派遣研究員上田実さん、助手の小生などが常連でした。内野さんはここで女性をハンテイングして途中から会場を抜け出して、どこかにいくのでした。今でも湯島界隈は時間制の連れ込みホテルが林立しています。時々同じ女性と踊っていたので、かなりこの女性とは入魂(じっこん)だったようです。小生はブルースなどで体をぴったりと合わせて女性と踊ることは、とても気分がよかったのですが、ブルースのステップさえ全部は覚えられなくて、実にステップとリズムを合わせるのが下手で、運動神経が鈍感だということを思い知らされました。今では踊る機会もないのですが、踊れたとしても互いに全身を密着したチークダンスしかできないと思います。

 ダンスは楽しかったので、毎週土曜日の夕方5時以降には、三井進午教授がいないのをよいことに、毎週木曜日に研究室ゼミをやっている約50平方メートルの中央部の大きなテーブルを、部屋の片隅に横に立てかけて片付けて、部屋の中央部分をダンスホールとしました。内野さんが持ってきたダンスミュージックのSPレコードを何回もかけて、皆でダンスを踊りました。三井教授秘書の野島夏子さんや、田村三郎生物有機研究室の鎌田嬢(彼女の父親は三井先生の友人だということであった)や、彼女たちのお友達が参集して、サービスしてくれたので女性には事欠かなかったのです。教授室からダンスミュージックが聞こえているはずの他の研究室がどう感じているかなんぞ、皆まったく眼中になかった。今から考えると、すぐお隣が発酵学研究室の教授室であり、有馬啓教授は苦虫をかみつぶしていたのではないでしょうか。そこでのダンスの教師は内野さんでした。何事にも器用な芦沢君などはラジオ会館とこことで、タンゴが踊れるほどの驚異の上達を示しました。内野さんは以前に世田谷区の社交ダンス大会で優勝したことがあるようなことを言っていました。いつ見ても内野さんと踊っている女性は本当に楽しそうでした。
 
 そういうわけで、年に一度の三井研究室の旅行では、食事の後はダンス大会でした。実は武蔵高校出身の三井先生自身は結構ハイカラで、西ヶ原の農業技術研究所では、若い時に毎週ダンスパーテイーを主宰して、ダンスに凝った経験があるとのことで、ダンスが大好きでした。小生が研究室に入ったころには、すでにただの猥褻気味なチークダンスになっていたのですが。栗原淳助手もいつもくそまじめな顔に似合わずなぜかダンスが上手でした。そんな時、ダンスを踊れない堅物の旧制一高出身の熊沢喜久雄助教授はいつも苦虫をかみつぶして退屈そうでした。
 
ボクシングのこと

 内野さんが3回戦ボーイとしてプロボクサーとしての出世を目指していたことは述べました。しかしなぜかそれは途中で挫折したようです。その原因は当然誰かに倒されて、敗戦したからだと思うのですが、詳しいことは聞いたことがありません。しかし彼はその後も熱烈なボクシングファンで、そのころから日本はボクシングが全盛時代になっていくのですが、その一流の日本の選手の全日本や世界のタイトルマッチでは、いつも小生を誘ってどこかテレビがある喫茶店に潜り込んで、テレビ観戦しました。試合前の体重計量の話から始まって、試合中のパンチの種類やパンチからのガードの仕方などのいちいちの解説が実に理詰めで、納得のいくものでした。試合の途中経過の中で、どちらがどう弱ってきているかなどの予想は的確に当てるのでした。さすがプロの経験者は違うなーといつも感嘆して聞いていました。そういうわけで1970年代から1990年代までの日本の世界チャンピオン戦はだいたい小生はテレビで観戦しています。まさに「ボクシングは科学的スポーツである」と思わせるものがありました。しかしいまだに、小生は現場の試合は見たことがありません。
 
 プロのボクシング選手経験者はパンチが凶器と認定されていて、やたらに鉄拳を行使して相手を傷つけると、逮捕されて「有罪」は必至だ、ということを所属ボクシングジムで叩き込まれていたせいか、内野さんは相手が理不尽でも相手をにらみつけて、じっと我慢しているところがありました。一度だけ、親しい園芸高校出身の仲間と新宿で飲んでいて、チンピラに絡まれたときは、思わずわずか数十秒で内野さんが一人で5人を倒して、警察に大目玉を食らったが、「正当防衛」と認定され無事釈放されたということでした。のちにガッツ石松が町のチンピラを相手に全く同じことをして、逮捕された事件があって、二人で笑ってしまったことがあります。というわけで、どこか、繁華街や、暗闇の<怪しげ>なところに行くときは内野さんが一緒だとボデイーガードとして安心して踏み込んでいけました。当時は地方での土壌肥料学会の関東支部会などでは、夕刻は街に繰り出し、ストリップ劇場などがあったので、大男だけれど臆病な石塚晧造助手などは、道路で勧誘の<やりてばばー>との交渉は内野さんに任して、安心して入館して観劇していました(小生も)。内野さんは、大学でも<触らぬ神に祟りなし>と一目置かれていたと思います。誰かが彼を目の前でからかうのを一度も見たことがない。彼ににらまれるとぞぞー!とするらしかったです。
  
 周知のようにボクサーは試合の前に公開で体重計に乗って測定をして、フライ、バンタム、ヘビー級などの階級ごとの規定の体重以下であることを確認されて、翌日の試合をする資格を得る。だから、ボクサーは試合日前までの自分自身の体重管理に非常に厳しくなければならない。多くのボクサーはこの減量の仕方に失敗して、たとえば急激すぎた減量ゆえに、計量にパスしても、試合中に体調を崩して敗戦に至るばあいがある。ということは自分に合った減量の技(わざ)をマスターしないと、プロボクサーとしては通用しないというわけです。内野さんはプロボクサー志望の時に獲得した減量の技を大学でも日常的に行使していました。1キロや2キロは丸一日で減量できていました。ボクシングをやめてからは激しい運動をしないので太り気味で膝が痛いとかいって困っていた時期が何回も周期的に訪れていました。でもこれから減量すると決めたら一週間で5キロぐらいは容易に減量していたのです。ふだんからとても汗っかきだった。残念ながらこの減量の技はシロートがやると危険だということで、教えてもらえなかった。何か秘儀があるようでした。

   
ビリヤードのこと
 
 東大農学部前の「高崎屋」を本郷通りから右に曲がると7号線(甲州街道)に入りますが、それを50メートルばかり行ったところの左手の「紅谷ビル」の一階に「ビリヤード」道場がありました。そこに半年ばかり通い詰めて内野さんに指導を受けたのですが、小生はいつまでたっても上達しなかった。ビリヤードは球が当たって跳ね返る原理は幾何学なのですが、当たった球の両者の動きはスピンのかけかたなどで、それがどうとでも変わるので、球筋が正確に予測できない小生は苦手でした。キューを左手で支持する輪っかの作り方が不正確かつ安定しなくて、だいたい2~3球打つと連打できなくてスカタンになる。やっているうちに、内野さん以上に卒論生の渡辺君(三菱化成に入社)や大学院修士の鈴木春彦君(窒素に入社)などの試技は驚天動地でした。彼らの順番に来るといつまでも失敗がないので、なかなか次に順番が回ってこない。あまりにも個人差がありすぎて、小生は早々と引退しました。このビリヤード場は東大正門前にももう一軒あったのですが、1970年代の学園闘争の後からいつの間にか両者ともなくなっていった。時間制で多少お金がかかるのですたれたのかもしれない。その後、紅谷ビルはケーキ屋さんになったが親父さんがなくなって、閉じ、今は一階の一部が天ぷら屋さんになっています。このビルの3階には一時土器屋由紀子助手家族が住んでいた時があります。詳しくは述べませんが、学園闘争の時は土器屋邸(土器屋さんの旦那さんが外国に留学していたこともあって)で我々は寝泊まりして、農学部正門や東大正門などを監視して、1969年の機動隊による安田講堂陥落前後では徹夜で機動隊の動向をトランシーバーで無線でやり取りしていました。
   
ソフトボールのこと
 
 ある時期、三井研究室では昼間っから下手をすると夕方までボールが見えなくなるまで農学部のグラウンドでソフトボールの練習をしていました。内野さんはキャッチャーが得意で、バッターのほうは技巧派で内野手の穴場を狙ってヒットを打つのが得意でした。小生はひたすら長打を狙うのだが、空振りが多かった。ノックではグラウンドの応用微生物研究所側から打って地震研の敷地内のテニスコートにフェンスを乗り越えて入れるぐらいの打撃力があったのですが。バドミントン部で運動神経の抜群だった鈴木春彦君などはどんなボール玉でも左右に長打を振り分ける技巧を有していました。13の研究室がある農芸化学科内でのソフトボール対抗試合では肥料研は時々優勝していました。そういうわけで、昼間は研究室ががらがらで、居たとしても流しのところにある長机に集まってはダべリングをしていたのです。「一体植物栄養肥料研はいつ研究しているんだ?」 と思われていたと思います。実は午後6時以降徹夜するのが小生の実験スタイルだったのですが。
 
花の話
 
 都立園芸高校出身だけあって、内野さんは観葉植物には目がなかった。特に欄(ラン)の蒐集と育成技術がプロ並みでした。研究室旅行などで山を歩いているときでも野生のランがあると目ざとく見つけて、丁寧に根から掘り出して濡れた新聞紙にくるんで、持ち帰るのでした。木の枝への着生ランは、あまり栽培していなかったのですが、自宅でも大学の温室でも採取してきたランを鉢植えで栽培していました。さすがに植物であるから水が必要で、丁寧に丁寧に毎日観察して必要なポットにはジョウロで潅水するのが彼の一日の大学での仕事の始まりでした。小生は時々根分けしたランをもらって家のベランダで栽培したのですが、どれも一回ぐらい花を咲かせて、あとは水やりを忘れたり肥料をやりすぎたりして枯らすのが常でした。
 
 横浜女子学院は三井先生の秘書の野島夏子さんの出身高校でした。その手づるで、横浜女子学院の八ヶ岳山荘には毎年初夏5月の連休を利用して、生徒がいないときを狙って三井研究室の学部生や大学院生ら若い連中と一緒に遊びの合宿に行きました。この八ヶ岳周辺の山道の散策は、内野さんには、海老根蘭(エビネラン)の採集に絶好だったようです。黄色い花のキエビネを見つけたときは、非常に喜んで採取していました。
 
 いつの年であったか内野さんは2週間にわたって突然、大学からいなくなったことがあります。大学に還ってくると、「北海道の礼文島に旅館の番人というアルバイトを兼ねて行ってきた、これを見てくれ、と『レブンアツモリソウ』と『クマガイソウ』を実に嬉しそうに見せてくれました。両者ともに当時は天然記念物なので採取してはいけないものであったのですが、どうしても欲しかったので、礼文島の山(礼文富士)に登山の機会を見つけて採取してきたのだそうです。その時初めてこれらの可憐な植物を小生も鑑賞しました。あまりに貴重なので、この両者は世田谷の内野さんの自宅で栽培することにしたようでした。何代か株分けして増やして、園芸高校の同期生にプレゼントしていたようです。現在クマガイソウは野草植物展などで時々見かけるのですが、寒冷高地に適したレブンアツモリソウはあまり見かけないので、本州での野草としての養殖はけっこうむつかしいのかもしれません。
  
夜来香(イエライシャン)の話

 内野さんは東大農学部2号館の地下の4号室が居室でした。ふだん小生は夜中に同じ地下の放射性同位元素施設(RI室)に入り浸って深夜まで実験をしていたのです。内野さんの出勤体制は極めて不規則でしたが、花のバイオリズムに自分の生活を合わせるのは厭いませんでした。圃場の温室に栽培している夜来香がつぼみを付けて膨らみ始めると、さっそく4号室に運び込んで「ビンちゃん、今日の真夜中にこの花が開花するはずだから、ブランデー入り紅茶でも飲みながら、ずっと観察しないか」と誘ってくれました。小生は実験しながら、開化の具合を時々チェックに行ったのですが、彼の予測通り、ちょうど夜の9時か10時ごろに,ゆっくりとつぼみが膨らみ始めて、12時ごろには突然全開になるのを驚嘆しながら見ていました。内野さんはまたとないチャンスとばかりに写真を撮り続けていました。翌朝になると、花は花軸からだらりとうなだれてしぼんでおり、その急激な変化には、また驚かされました。「まるで射精の後のペニスのようだね」と冗談を言い合ったものです。半年にわたってじわじわとサボテン様の多肉の葉を太らせながら、ある時点で満を持して花は一気に咲いて一日でしぼむ姿は、まさに「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」(林芙美子)を満喫したのです。
 
ブランデーの話
 
 小生は酒を全くたしなみません。内野さんも酒は苦手で、すぐ顔が赤くなりました。しかしブランデーだけは大好きのようでした。サントリーやヘネシーのV.S.O.P.が大好きで、高価なので、部屋にストックしておいてちびりちびり嗜(たしな)んでいました。主に香りをたしなんでいたようです。安物ブランデーとV.S.O.Pとは画然と香りに差がある。おかげで小生は紅茶にレモンとブランデーを入れるというアメリカ式(?)という紅茶の飲み方を彼に教わり、一時はかなりこれに凝っていました。水質が悪いといくらいい紅茶を使ってもブランデーの香りが消されてしまうということも発見しました。
 
 あるとき、北海道農試から3か月ばかりの短期派遣研究生として鎌田賢一さんが茅野研究室に来ました。小生には東京の夜は目まぐるしい喧騒文化だと思うのに、逆に鎌田君にとってはそれが刺激的で、毎日感激して興奮していました。なので、内野さんと小生はかたらって、彼の滞在期間内に東京のあちこちを案内することにしました。あるとき、内野さんが赤坂プリンスホテルの最上階にある、生演奏バンド付きのレストラン兼喫茶店の回転式展望台に鎌田さんを招待しました。そこの店に入るには女性はどんな服装でもよいが、男性は背広・ネクタイでなければならないという、今ではばかげた気取ったルールがあって、我々は入り口で青色の背広とネクタイを有料で借りました。この時初めて内野さんにシングルとダブルのネクタイの締め方を習ったように思います。そしてさっそうと、入っていった。我々はテーブルに座ってブランデーとレモンテイーを所望し、40分で360度1回転する夜のビル群の展望を3回堪能しました。生演奏付きでした。金がないので、2時間制で引き揚げました。その後、小生は何回かその場所に男女の友人を紹介しました。内野さんは生粋の都会人でこのような流行の場所に非常に詳しかったのです。
 
食べ物のこと
 
 内野さんと、学生実験用の資材の受け渡し担当の技官である岡さん、のちに今井さんとは、同じ技官職仲間で非常に親しかった。内野さんはたいてい昼間はこの受け渡し部屋に入り浸っていました。今井さんは埼玉県高崎から2時間半ぐらいかけて実家から通勤していた。なぜ大学の近くに住まないのか?と聞くと、高崎の実家の庭が広くてそこで盆栽に凝っているということでした。だから通勤経路は東大農学部裏門から出て不忍池ぞいにJR上野駅まで歩いて、東北本線に乗るのでした。時々はその途中で上野の「アメ横」に寄って、安い食材を買って帰るのだとか。内野さんも時々今井さんと一緒に遠回りして、アメ横で買い物をして帰っていました。6時を過ぎるとアメ横の魚屋は店じまいに入るので、売れ残り物をさばき切りたい。なので、彼らはそこを狙って買い物にいくのだとか。ある時、内野さんのアメ横での買い物に付き合いました。彼はサケの切り身やマグロのトロ身を呼び子がだんだん威勢よくデイスカウントするのをわざと目の前で無表情で棒立ちしており、これ以上まけられない値段になった時に、「これとこれをセットで XX千円でどうだ?」と値切り交渉に入り、根負けして呼び子が折れる、という掛け合いをやっていました。なかなかのものだと感嘆したことです。小生には一人でこういう交渉をやる勇気がないが、二人で立ち会って、自分のためにではなく、相方のために、ガンガン値切るというやり方で成功したことがありました。
 
 研究室では、小生らはお腹がすいたときは、ガラス細工職人の大内さんがお歳暮や暑中見舞いで数箱ごと大量に差し入れてくれるラーメン「サッポロ一番」を棒グラフを書いて競い合って食べていたのですが、口の肥えた内野さんはそんな野蛮なものは食べなかった。大部屋の食卓では自分で材料を調達してきて特大の中華鍋でチャーハンや野菜炒めを作って、皆にふるまっていました。男性なのに料理の味付けは旨かった。西村靖彦さんも料理が得意で、時々皆さんに、サラダや餃子を作ってふるまっていました。研究室に調理の匂いがこもらないように、廊下側のドアを開けて空気を取り込み窓側には大きな排気ガス用の扇風機がいつも回っていました。スタミナをつけるのにニンニク料理が大好きで、にんにくの口臭を消すのにお茶の葉をかめばいい、というやり方を彼から学びました。これから女性とデートをするらしいときには、必ずお茶の葉をかんで、歯を磨いてから行くのがとてもおかしかったです。
  
学園闘争のころ
   
 1969年から1970年後半まで学園闘争や臨時職員の定員化闘争で、東大農学部はカオスでした。小生も積極的に参加していました。特に三井研究室は思想的な対立が激しく、今思いだそうとしても、忘れたい記憶なのか、小生の頭の中では、時系列的なことが全く消えてしまっています。そんな時でも、内野さんは決して矢面には立ちませんでしたが、いつも大学で底辺を支えている職員の側に同情的でした。我々の全共闘系の仲間内では、当時流行していた赤塚不二夫の漫画の中に出てくる太り気味の「ココロのボス」に内野さんの雰囲気がそっくりだということで、彼のことを「ボス」と親しみを込めて呼ぶようになっていきました。
    
業務について
 
 内野さんの仕事は根粒菌の植え継ぎであるからこれは一週間に一度ぐらいやればいいことで、ほかにいろいろほかの研究者の仕事を手伝うことでした。技官は教授と助教授に絶対服従であるが、ほかの助手や大学院生や学部生は全部年下なので、折を見て彼が手伝える部分だけは手伝ってやるという態度でした。
 
 ある年、野外の農学部圃場で高麗芝の根圏に放射性リン(32P) を注射器で投入して、地上部への移行を見るという「実験計画法」に沿ったコンクリートで固めた「枠試験」を三井教授の指導で大々的に行ったことがあります。今だと完全に違法な野外試験を、圃場の20メートル四方に「部外者立ち入り禁止」のロープを張って、2−3年間行ったのです。内野さんは教授の命令で、これに深くかかわらせられました。それもあってか、実験には真剣に取り組み、芝の生理生態に実に詳しくなりました。この研究報告は「農業及び園芸」誌に連載されたと思いますが、内野さんも著者に名を連ねました。一方、小生も春・夏・秋・冬とイネ・ムギの水耕栽培と土耕栽培に、卒論生、修論生、圃場の技官である尾林助好さんにくわうるに、内野さんにも手伝ってもらって4年間にわたって、野外試験をひたすら敢行しました。その成果を論文にして、論文には内野さんの名前も記しました。全部で6報ぐらい共著論文があると思います。そういうわけで、内野さんは技官でありながらいくつかの論文を研究業績として有していたので、公務員の「行政職」としては本来業務以外に付加価値がついて、破格の給与の待遇であると自慢していました。当時の農学部事務長よりも給料が高かったということでした。農学部事務長は長野さんと言って、彼の都立園芸高校の先輩であったのでそういう内密のことも知っていたようです。多分助手の小生の給料の二倍以上あったのではないだろうか。
 
 熊沢教授が退官して、茅野充男教授になってからは、年齢の近い二人はあまり仲が良くなかった。小生も助教授に昇格したのですが、2年後に植物分子生理学という新設講座が出来て、小生はそこの教授に昇格し転出しました。小生の後には年少の助手であった林浩昭君が昇格しました。内野さんは植物栄養肥料学講座に取り残された形になって、逆に自由自在にマイペースで生活をするようになったのです。茅野先生に、「外部の目がうるさいので、きちんと出勤体制をとるようにと言ってくれないか?」みたいなことを頼まれたので、そのことを彼に伝えると、なぜか彼は非常に怒った。年下に管理されたくない、という雰囲気であったのです。それ以来、彼は小生にはあまり近寄らなくなりました。農学部7号館が出来て小生はそちらに移り、物理的にお互いの部屋が次第に離れていったこともあって、同じキャンパスで出会う機会も急速に少なくなっていったのです。「ビンちゃんも出世すると人格が変わったな!!」と思われたのだと思います。
                 (2019年12月30日 記)