WINEP

-植物鉄栄養研究会-


NPO法人
19生都営法特第463号
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森謙治先生を偲ぶときに僕の語ること 

Date: 2019-05-29 (Wed)

猫を棄てる 父親について語るときに僕の語ること 村上春樹 文芸春秋6月特別号


をもじって


以下

森謙治先生を偲ぶときに僕の語ること (以下の10話は思いつくままなので時代は前後しますが。。。。)



1. 小生が助教授になりたてのときに池之端の料亭「江知勝」で恒例の農芸化学科の名誉教授を囲む会があり、会の終わりに森謙治先生につかまり、上野の飲み屋に連れていかれた。小生は酒が飲めないけれど、お酒が強い森謙治先生はめっぽうご機嫌で、強引なので断りようがなく、仕方なくついていった。あと何人かいたと思うが誰だったかはすっかり忘れている。

その飲み屋で森謙治先生は、

「森君!ノーベル賞はね、イノベーション(新規性・革新性)でなくちゃダメなんだ。デイベロップメント(開発・進展)じゃあもらえないよ」と。

ノーベル賞をもらいたいなんて思ってもいなかった小生には、実に唐突な話で、違和感があった。当時はその二つの言葉の意味がよく理解できていなかったのだと思う。若い森謙治先生はノ―ベル賞が欲しかったのだと思う。森謙治先生はすでに「天然有機化合物の合成に関する研究」で松井正直教授と共に日本学士院賞を授与されていたので、次のステップとしてノーベル賞を狙っていたのかもしれない。

その15年後、何かの折に、森謙治先生に「昔こういうことをいわれたのを、強烈に覚えております。今では非常によくわかりますが」とお話しすると、森先生は非常に不思議そうな顔をされて「そんなこと言ったっけ?」とおっしゃったので、こちらがこけた。

周知のように現今のノーベル賞は化学賞や物理学賞は基礎的原理原則の発見ばかりでなくその原理を産業応用した発明品のグローバルな成果も評価基準になっている場合がある。少し応用マインドに変質してきているように思う。



2. 今は無き東大農学部近辺の料理屋「金子」で恒例の農芸化学科の名誉教授を囲む会があり、森謙治先生はオデコに大きなバンソコウを張って堂々と出席されたことがある。
「夜中に灯りがない農学部のグランド横の細道を自宅に向かって帰ってたんだ。酔っぱらっていた上に、足元がよく見えなくてね、 わずか2-3センチの段差で足を踏み外して、顔面制動したんだ。僕は頭が重いらしくてね、手が出なかったんだよ」

  

3. 森謙治先生が学士院会員になられたときにお祝いに、小生の郷里の高知からの産直の農産物を贈ったら、なぜかすごく喜ばれた。その後、道すがらすれ違った時には奥さんからもわざわざお礼を言われた。森先生は「僕は小さいときに、岡山県に住んでいたので、農業をやっていたことがあるんだよ」と言われた。

後日、森謙治先生の葬儀の時に、西片町基督教会の牧師の紹介で、森謙治先生は父親が牧師で、京城(ソウル)で生まれて、戦後は父親の出身地である岡山県の農家に身を寄せていたと、初めて聞かされた。そこで農業をやっていたのだそうだ。戦後は国民全員が食糧難で無茶苦茶お腹を減らして苦しかったが、インテリの牧師さんが農業をやりながら、よくも家族に食料を提供できたものだと思ったことである。森先生の相当ひもじかったであろう思いが偲ばれた。そこら辺の苦労話はもう少しご本人から聞きたかったなー。
朝鮮電力の技術者をしていた小生の親父は農家の次男で郷里の高知には土地の遺産相続を受けていなかった。だから、戦後は完全に失職して、我々8人家族は朝鮮半島から引き上げてきた高知で極貧の食糧難であった。戸籍を取り寄せたら小生は今のピュンヤン郊外で生まれたらしい。



4. すでに述べたが、森謙治先生は若いときに松井正直先生と共に学士院賞を受賞されていたが、そのあと10年ばかりして「天然生物活性物質の化学合成に関する研究」で農学賞・読売農学賞を受賞された。その時の農芸化学科の名誉教授を囲む会では、終始ご機嫌であった。小生もお酒を注ぎに行ったのだが「君は息が臭いねー!ニンニク食ったんだろー?」といやいや杯を受けてくださった。うーむ、きっと嫌われてんだろうな?と思ったがその時はなぜだかわからなかった。


5.あるとき。大学の学内電話で森謙治先生から電話があった。
「森君、これ間違い電話らしいけど、山二証券から森さんあてに学外電話らしいよ。同じ森ということで僕んとこに電話の大台から回ってきたよ。君は『株』なんかやっとるんかね。わっはっはは・・・」 と如何にも軽蔑の口調であった。

当時山二証券の社員である守住正昭さんは「ニッサンサニタ」という殺虫剤を家庭で用いて昏倒して、それが原因で体調不良を繰り返してノイローゼ気味になり、ついに製造元である日本油脂を訴える裁判を東京地裁に起こしていた。小生はその支援活動をやっていた。その関係で、原告である守住さんを心情的に支援する意味でも、株のデイーラーである守住さんを通じて株の売買を行っていた。その彼から急ぎの株の売り買いの用事で大学の小生あてに電話がかかってきたのである。当時は携帯電話がまだ普及していなかったのである。

http://moribin.blog114.fc2.com/blog-entry-52.html

クリスチャンである森謙治先生の認識では「公務員が株で金儲けをやるなんてもってのほかだ。そんな暇があったら研究しろ!」
と言いたかったのではないかと思う。
   

6. 森謙治先生はお酒を飲むと、とりわけ大音声(だいおんじょう)で話される。農芸化学科の名誉教授を囲む会では畳の座敷部屋での日本料理の料亭での開催が平成10年ぐらいまでは続いた。森先生はいつも立ち上がって、興に乗ってあちこち御酒を注いで回られる。もちろん女性教員にも。
「---さん、今日は赤い毛糸のパンテイーはいてますか?」 などと今では強烈なセクハラ発言を大声で乱発されていた。我々はひそひそと、“クリスチャンは日ごろキリストの監視の前で抑圧されているから、お酒の場では、解放されるんだろうね。。。”とうわさしていたもんだ。森先生はプロテスタント派のクリスチャンということであった。



7. 東大の全共闘運動が収束しても東大農学部では「臨時職員闘争」が延々と続いていた。小生は当初から積極的に関わったが、運動が少し暴力的になり、惰性を帯びてきたので徐々に心理的にも実質的にも戦線を離脱した。森謙治先生は運動の流れをハラハラしながらもよく見ておられたのか、10年ぐらい後の名誉教授を囲む会では「森君は逃げ足が速いんだねー」と嫌味を言われた。別に、逃げたわけではないが、離脱の大きな理由は、研究者としての自立がいよいよ必須になってきた焦燥感からだったと今にして思う。



8. 2015年の学士院欧文誌Proceedings of Japan Academy に小生らは福島原発事故で飛散した放射性銀(Ag110m)がジョロウグモに蓄積していることを発見したことを、別府輝彦名誉教授(学士院会員)の紹介で投稿した。この論文は掲載直後の1か月間で4000件以上のダウンロードがあったということで、日本学士院でも評判であったようだ。ちょうどそのころ森謙治先生は学士院会員になられて、この雑誌のレフェリーなどをされるようになった。東大農学部での毎年の夏の納涼会でお会いしたときは開口一番「君の放射性銀の論文ずいぶん評判なんだってね!」と実に実に珍しく、うまれて初めて森謙治先生からお褒めの言葉をいただいた。



9. 最近の上野精養軒での名誉教授を囲む会では、「君の学士院賞受賞は共同受賞者の西澤直子さんの貢献の方が大なんだろう?」と皮肉を言われた。さすがにむっとしたので、「我々のムギネ酸の研究は約25年以上かかったもので、最初の数年間に種をまき続けたのは私で、引き続き西澤先生のときにも15年間ぐらい大型プロジェクトの研究費が続いたので、何とか成果が収穫できたのです。」と言っておいた。

「研究費が続いてよかったね!!」と言ってくれたが、理解していただいたかどうかはわからない。

我々のながい研究の経過は、研究に参加した大学院生・ポスドクの苦労話も含めて「ムギネ酸研究の軌跡」(森敏・西澤直子編著:NPO法人WINEP発行)に刊行しておいた。



10. 昨年の「上野精養軒」での名誉教授を囲む会では、滝川浩郷さんが、有機化学研究室の新任教授として赴任してきて、本人による壇上からの自己紹介があった。森謙治先生はこの研究室の2代目の教授を長く勤められた。この時森先生は、横に座っている小生に向かって小さな声で曰く、

「これで僕の葬式は滝川君が仕切ることにきまった。僕は安心して死ねる。。。。」と。

小生「?????:::」

その半年後に森謙治先生は胆肝がん(直接の死因は心筋梗塞)で逝去された。あの時は、すでに死を覚悟されていたんだと思うと、実に切ない。

  

  

(森敏)